仙台藩四代藩主伊達綱村卿が貞享、元禄の頃、御用織物師を召し抱え、藩御用の織物を織らしめたことに始まると伝えられる。以降、代々藩主の手厚い庇護を受け、五代吉村卿時代には金華山生糸を用いて更に改良を加えたので、最高技術の織物袴地を織り出すこととなり、皇室、幕府及び他藩への贈物として極めて珍重され、位の高い武士を中心に愛用され、全国に名を馳せた。
やがて、藩政時代が終わると民間企業として発展を遂げ、 と言えば、最高の袴地として仙台市の主要産業となり、明治から大正、昭和初期にかけては、年間三万反の量産を誇ったといわれる。
しかし、大正15年(1926)を過ぎると、第二次世界大戦の企業整備や贅沢品の製造禁止のため、ただ甲田機業の榮佑のみが、その技術保持のために、少量の生産割当を受けて細々と製作を続けていくことになった。榮佑はこの間にあって幾多の困難や苦境を乗り越え、、 の伝統を支えてきた。
戦後10年、昭和31年(1956)に文化財保護法が制定されるや、国は同31年4月に、精好仙台平を重要無形文化財に指定し、榮佑をその技術保持者として認定した。いわゆる人間国宝である。
昭和45年(1970)1月甲田榮佑死去後、嗣子綏郎が継承、技術を伝えており、平成14年(2002)7月、親子二代に渡り重要無形文化財に指定され現在に至っている。
現在は、合資会社仙台平ただ一軒のみが、 の伝統を受け継いでいる。
東京国立博物館名誉館員 山邊 知行先生著
「 の碑」より一部抜粋
弊社製品の光栄 (明治時代~)